2012年9月24日

9/29 第220回東南アジア考古学会例会

第220回 東南アジア考古学会例会のご案内(9月29日)

9月の例会は、学会員の最新の研究状況を夏期調査報告会という形で発表していただくことになりました。
様々なフィールド、分野で活躍される方々のご発表です。つきましては、ご多忙中のこととは存じますが、万障お繰り合わせの上、是非ご出席下さいますようお願い申し上げます。

        記
日時:2012年9月29日(土)15:00~
場所:昭和女子大学研究館7階7L04教室   
(住所:東京都世田谷区太子堂1-7 交通:田園都市線「三軒茶屋」駅徒歩5分)

 発表1:深山絵実梨(早稲田大学)
  題目:「フィリピンルソン島、アルク洞穴出土資料調査」
  経緯:東南アジア先史時代において長距離海洋交易を示唆する遺物である有角?状耳飾の起源を解明する目的のもと、同資料出土遺跡で最も古い年代を示すフィリピンルソン島のアルク洞穴出土資料を実見し、遺跡の年代を再検討する。

 発表2:小野田恵(昭和女子大学)
  題目:「ベトナム・ハノイ歴史博物館所蔵の22652室墓資料調査」(仮題)
  経緯:今回の夏季調査報告は、博士課程の研究テーマである「北属期研究」の一環として、ベトナム・ハノイ歴史博物館に所蔵されている22652室墓資料の調査を行う。現在、北属期に関する研究・報告において提示されている既存資料の多くは、フランス植民地時代に調査された資料が大半を占め、近年における新資料の存在もほとんど明らかにされることがなく、基礎資料の蓄積と研究の発展に若干の支障をきたしている。以上の理由から今回の調査を通し、新たな?室墓資料の有無と既存の資料をふくめた収蔵方法の把握を行うとともに、これらの資料について、近年、同博物館にて行われている調査研究の実態をまとめてみたい。私は昨年末よりハノイ国家大学・ベトナム学発展学院の元で留学を開始しており、今回は本機関の協力を得て、幸運にも博物館から調査許可をいただくことができた。なお、調査期間は3週間である。

 発表3:秋山成人(奈良市埋蔵文化財調査センタ-)
  題目:「インドネシア先史時代のMegalith -東カリマンタンの予備調査-」
  経緯:中部スラウェシと類似の石造物が東カリマンタンに於いても分布するとの情報から現地確認を行うものである。

 発表4:下田一太(早稲田大学理工学術員 講師)
  題目:「古代クメール都市イーシャナプラの都城内に位置する寺院遺構の調査」
  経緯: イーシャナプラは7世紀に造営されたチェンラ王朝の都市址であり,今日のカンボジア,コンポン・トム州に位置するサンボー・プレイ・クック遺跡群に比定されている。都市全域は東に複合的な寺院群を形成し,西には2km四方の環濠 に囲まれた都城を配しており,その周囲にも多数の煉瓦造遺構が点在する。近年の筆者らによる調査では計133の煉瓦遺構を含むサイトを確認しており,その他にも多数の溜池,土堤,水路等の痕跡が認められた。環濠に囲繞された都城内だけに限っても計56の大小の煉瓦遺構を含むサイトが記録された。
 漢籍史料において,チェンラ王朝つまり真臘に関する記述は複数の正史や地方誌に含まれる。この古代都市は「伊奢那城」と漢訳されるが,中でも『隋書』(巻八十二列伝四十七 眞臘条)において充実した記述がある。隋書は636年に「紀」伝が,656年に「志」伝が成立しており,7世紀前半にここイーシャナプラが王都として勃興した時代をいち早く記録した。646年に成立した唐の僧侶玄奘の見聞録・地誌である『大唐西域記』においても,南海諸国として6ヵ国を伝え聞いており,その中にイーシャナプラは「伊賞那補羅国」の名前で記され,王都の繁栄は海外にも広く行き届いていた様子が窺われる。隋書には「居伊奢那城,郭下二萬餘家。城中有一大堂,是王聽政所。」といった都市内外の家屋や都城内の宮や官衙といった施設に関する記述が認められることから,7世紀前半には都城内にこうした施設が造営されていた様子が伺われ,また都城内に残存する,あるいは地下に埋伏している遺構がこれらの施設に同定されることが予想される。
 一方,遺跡群内の寺院遺構に刻まれた碑文史料の多くも,7世紀前半という寺院建立年代を示しており,寺院と都城とは同時期に造営されたものと考えて良さそうである。加えて,都城内にて発見された彫刻装飾石材には,編年に有用な様式を示すものも含まれるが,これまでに確認されている石製遺物の多くはプレ・アンコール期の様式を示している。また,都城内で実施した表採調査からは,多数の遺物が収集されているが,多くを占める土器の中の一部はプレ・アンコール期のものであることが確かである。収集された瓦片の多くもまた平瓦で,オ・ケオやアンコール・ボレイといったプレ・アンコール期のサイトで出土しているものと類似している。こうした遺物にもとづく年代考察もまた,都城内の遺構はプレ・アンコール期には造営されていたことを裏付ける根拠となっている。
 しかしながら,これまで都城内に多数確認されている肝心の遺構を対象とした考古学的発掘調査を含む研究は皆無であり,遺構の構築年代の考察等を含む研究が待たれていた。報告者らは都城内の二寺院における発掘調査を2010年と2012年に実施した。もちろん,複数存在する都城内の遺構の年代や建築的性格をこれら二寺院に代表させることはできないが,今後の継続的な研究を進める上で,本研究の結果は貴重な示唆を含むものと考えられる。

 発表5:田中和彦(上智大学)
  題目:「ルソン島北部、アトル村の土器作り ー3世代にわたる土器作りと道具ー」
  経緯: 東南アジアにおける現代の土器成形技術は、一般に叩き板と当て具を用いて成形する叩き技法と呼ばれるものである。しかしながら、この技法を細かく見るならば、東南アジアの諸地域で地域差がみられる。そうした地域差が見られる点の一つに道具の差異がある。
 例えば、東北タイにおいては、当て具は、粘土を素材として成形し、焼成したものを使用している(長友2011)。これに対して、フィリピンでは、当て具には円礫を使用しており、また、叩き具としても叩き板の他、円礫も用いている。
筆者とフィリピン国立博物館考古学部門研究員アメ・ガロン(Ame Garong)氏は、2011年5月、18年前(1993年)に筆者が調査を行ったルソン島北部、カガヤン州の土器作り村アトル(Atulu)村において1993年の調査時における土器作りと現在の土器作りとで変化した点について調査を始め、2012年3月、同年9月と調査を行った。この調査の過程で、土器作りの道具のうち、特に当て具、叩き具として使用する円礫に、土器の内側に当て当て具として使用する円礫と外側から叩く際の叩き具として使用する円礫に明瞭な違いがあることが明らかになった。また、両者に対しては、総称として「石」を表わす「バト」(“bato”)という語の他に、当て具として内側に用いられる円礫に対しては「シブカル」(“sibukal”)という語が使われ、叩き具として外側に用いられる円礫に対しては「デルペット」(“delpet”)という語が使われていること、すなわち、両者が呼び分けられていることも明らかになった。
 本発表では、ルソン島北部の土器作り村において使われている土器作り道具のうち、特に当て具石、叩き石として使われる円礫に焦点をあてて、3世代の陶工によって使われている円礫の特徴を内側用の円礫と外側用の円礫に分けて提示する。

  発表6:昭和女子大学考古学調査団
  題目:「ホイアン出土遺物の概要」
  経緯:2006年にベトナムのホイアン旧市街地で実施した発掘調査の遺物整理(17ー18世紀)、及びベトナム中部発見の一括出土銭の調査。

【問い合わせ先】〒154-8533 東京都世田谷区太子堂1-7
昭和女子大学歴史文化学科 菊池誠一研究室内
東南アジア考古学会事務局jssaa[atmark]jssaa.jp
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